『Dehydration Solution』

「あ~つ~い~……」
教室の隅からそよ風を送る扇風機に向かって、結奈が気だるそうに呟いた。ちなみに本日三回目。
勿論扇風機が言葉を返すはずもなく、カラカラとどこかの壊れた部品が羽に当たっている音だけが空しく鳴り続けている。
私はそこまで暑さを感じていなかったけど、結奈には酷なようだ。
「そんなに暑い? エアコンついてるよ?」
天井に備え付けられた大型のエアコンを指差して言うと、結奈は壁のコントロールパネルを指差して返した。
「ついてるって、二十八度だよ? 二十八度! そりゃあいつもなら平気かもだけど、こんな酷暑の中で二十八って、ついてないも同然だよ……はぁー」
悲嘆の声を上げて机に突っ伏す結奈。
大丈夫だろうか……。
屋内でも熱中症になると聞くし、心配になってくる。
「そこのパネルで設定温度って変えられなかったっけ?」
割り箸を置いて黒板横のコントロールパネルへ歩み寄る。
温度調節ボタンを「下」「上」両方連打してみるが、モニターに表示されている数値が変わる様子はない。
「あー、無理だよ。そこからだと電源のオンオフと風向の調節しかできないようになってる」
どこかで一括制御されてるんだっけ……。
「ケチだなあ、うちの学校」
まあ今に始まった事じゃないか。
「結構多いみたいだよ、そういうとこ。それに夏休みだから、節約してるのかも」
「あ、それはありそう」
そんな会話を結奈としながら、私は登校中にコンビニで買った弁当と菓子パンを平らげ、水筒を傾けて喉を潤した。
教室の時計を一瞥すると、十二時半を少し過ぎた頃だった。
午後の補習まで、まだ一時間近くある。
日が昇ってきたせいもあってか、少し暑い。いや、結構暑い。かなり暑い。
額からじわりと汗が滲み、ワイシャツの湿り具合は次第に酷くなっていく。
もう一度パネルのスイッチで温度調節を試みたが、押すだけ無駄だった。
「やっぱダメか……結奈、咲良のとこ行ってみる?」
「咲良って……ああ、水泳部?」
ハンカチで頬の汗を拭きながら首肯した。
咲良は水泳部に所属しているクラスメートだ。
降りる駅が一緒だったり選択授業が重なっていたりもして、結構仲が良い。
彼女が言うには、夏場でもプールサイドは空調の効いた教室より涼しい……らしい。
「プールサイドってそんなに涼しいかな?」
「咲良曰く」
私も真偽は分からない。咲良がそう言ってたから、たぶんそうなんだろう。
「行ってみよっか」
首振り機能が壊れたポンコツ扇風機を足で止めた結奈が、おもむろに椅子から立ち上がった。
「そんな乱暴に扱うからどんどんボロくなってくんだよ」
「気にしない気にしない。足で押しただけだって。それよりさ、行くのは良いんだけど、部活中だったらまずくない?」
「時間的に向こうも昼休憩でしょ。それに、ここに居ても茹だるだけだし、行ってみる価値はあるんじゃない?」
「そうなんだよねえ。行こうかぁ」
二人きりだった教室を後にして、私と結奈は体育館脇のプールに向かった。
途中、プールサイドに上がる階段の真ん中に見覚えのない立て看板があった。
看板の張り紙にはこう書かれている。
『プールサイドに上がる前に、携帯電話や音楽プレーヤーなどの電子機器や貴重品はロッカーにしまっておきましょう。専用の鍵付きロッカーはこちら→』
後から付け足したのだろう、下の方には『必ずしまうこと!』と赤い太字で殴り書きされていた。
「琴音、こんな看板あったっけ?」
「なかったと思うけど……」
一学期の最後の授業でプールに入った時は、こんな看板は置かれてなかったし、張り紙もなかった。
怪しげな立て看板を前にプールサイドへ上がるのを躊躇っていると、そこにタオルを羽織った水着姿の咲良が通りかかった。
「……あれ、結奈に琴音じゃん。何やってんの? 夏休みに」
「結奈と二人で英語の補習。今昼休憩なんだけど、教室暑かったから、来てみた。もしかして邪魔だった?」
「ううん、さっき昼休憩になったとこ。少し寄ってきなよ、涼しいよ」
来訪者を拒むように設置されていた看板を咲良が端に寄せた。
せっかくだから聞いてみるか。
「咲良、この張り紙は?」
「張り紙?」
「プールサイドに上がる前に、ってやつ」
私が視線を張り紙に移すと、それに気づいた咲良が今さっき動かした看板の表を上から覗き込んだ。
「……ああ、これね。これは夏休み中見学に来る人のために出してるの。携帯とかスマホとか、濡れて壊れちゃったら大変でしょ?」
「あー、それで…………」
それらしい理由だけど、どうも納得がいかなかった。
一学期から常設しておけば良いものを、何故夏休みに入ってから……。
「琴音~、早く~」
「あ、ごめん」
まあ良いか。何か理由があるんだろう。
ポケットの携帯電話と財布を掴んで、狭い鍵付きロッカーにしまった。
上履きに靴下を突っ込み、ひんやりと冷たいコンクリートの階段を素足で上っていく。
「おー、確かに涼しい。琴音~、めっちゃ涼しいよ」
先にプールサイドへ上がっていた結奈がベンチに腰かけて足をぶらぶらしていた。
「あっ……」
プールサイドへ上がった途端、爽涼な風が体を撫でた。
エアコンのように鋭くない、穏やかな優しい風。
真夏であるのを忘れてしまいそうだ。
「今日みたいに暑い日は、定期的にプールサイドに水を撒いてるの。打ち水ってやつだね」
打ち水……聞いたことはあるけど、水を撒くだけでこんなに効果があるなんて驚きだ。
「琴音ー、私午後の補習いいや。ここで涼んでる」
「気持ちは分かるけど、単位落とすよ」
「…………え、マジで?」
「ただでさえ勉強しないんだし、補習受けないと成績落ちて単位落とすよってこと。赤点常連組なんだから少しは対策しないと。留年嫌でしょ?」
夏休みの補習は、中間・期末テストで赤点だった生徒のために設けられたものだ。
出席の有無が直接成績に影響するものではないみたいだけど、「二学期以降のためにも参加するように」と担任から強く念を押されていた。
「ううう……」
頭を抱えて悶える結奈を放って、私は庇のある教員室のパイプ椅子を開いて座った。
奥で休んでいた十人程の水泳部員たちに会釈する。
暫くして、結奈がまた悶え始めた。
今度は手足をバタバタしている。
「いよいよ暑さにやられたか」
「う〜ん…………違う違う! 暑いの! 確かに涼しいんだけど、暑い!」
「意味がわからない」
「来てみ、琴音」
結奈が手招きしてベンチに呼ぶのでその横へ座る。
「…………いや、暑くはないよ?」
「よーく意識すれば分かる。風は涼しいんだけど、たまに当たる直射日光が暑い」
「そうかな」
試しにそのまま数分間黙ってみる。
時折吹き込む風が心地良い。
そんな、こんなの冷房の効かない教室に比べれば遥かにマシ……と思っていたのも束の間、雲から顔を出した太陽から容赦なく日光が浴びせられた。
「暑っ!! 涼しいけど暑っ!」
「でしょ! ちょっと咲良~、暑いよ~」
「うーん、そんな事言われてもなぁ……あ、ちょっと待ってて」
咲良がポンプ室の隣にある倉庫の中に消えていった。
十秒も経たない内に、二枚の白い板を小脇に抱えて戻ってくる。
「はい、これ持って」
渡されたと言うより押しつけられたのはビート板。泳ぎの練習に使われるあの平たい浮きだ。
「二人とも泳げるよね?」
「えっ、ま、まあ泳げるけど……」
「万が一溺れそうになったらアタシが助けてあげるから、それじゃあ即効冷却ということで、ゴー!」
「え、ちょっと待っ……」
時すでに遅く、水泳部員のその鍛えられた膂力でもって私と結奈はいとも容易くプールへ突き落とされてしまう。
制服姿だったせいで着水の衝撃が強く、一瞬どっちが水面なのか水底なのか分からなくなる。
ゴーグルはないから目も開けられない。
右手で掴んでいたビート板を頼りに、動き辛い中体位を安定させ、水面から顔を出す。
「ぷはっ……! 冷たっ。ちょっと咲良! いきなり突き飛ばすなんてビックリするでしょ!」
「ごめんごめん、でもこれが最善の暑さ対策だよ。まずは体を冷やさないと」
「最善って……」
濡れた前髪を整えて結奈の方へ近寄る。
溺れてはいないだろうけど、まだ水中から上がってこない。
「ちょっと結奈、大丈夫?」
結奈はスーっと仰向きで浮かんできた。
「……あは、あはは、超冷た~い」
そのまま背泳ぎの体勢でぷかぷかと漂う結奈。
結奈、そんな格好だとワイシャツから下着が見えるよ……って私もか。
慌てて首まで浸かって胸元を隠す。
そんな濡れた制服に包まれるという非現実的な状況にある中で、私の気持ちは少しだけ高ぶっていた。
この感覚はなんだろう、初めてだ。
「二人とも大丈夫だよ、今日は男子いないから」
「琴音~、やっぱり私午後の補習いいや。出なくても何とかなるっしょ。ほら、飛行機雲見えるよ、あそこ」
「そんなぁ……私やだよ、一人で補習とか」
「なら琴音もサボればいいじゃん」
「えー……」
プールサイドから随分と離れてしまったので、近くに浮いていた円盤状の大きな浮きへ近寄る。
懐かしいな。よく小学生の頃我先に上ろうと必死になってたっけ。
「あ、それ結構滑るよ~」
「ん~!」
上がりたいが、咲良の言う通り滑って掴めない。
所々欠けた場所に指を突っ込んで、上半身から這うように上がっていくと、重心の崩れた浮きが傾いて再びプールへ落とされる。
「ああもう!」
何としてでも上ってやろうと表面のスポンジに爪を食い込ませ、上半身が乗ったところで一気に浮きの中央へ滑り込む。
「……はあ、やっと上れた」
水の染み込んだ制服の重みが一気に体にかかる。
透けるワイシャツ、太腿に張り付くスカート。
不思議な事に、それを不快だとは思わなかった。
「そういえば、あれ……結奈?」
さっきまで私のすぐ側で浮かんでいた結奈が見当たらない。
先にプールサイドに上がってしまったのかと見渡すが、プールサイドにいるのは数人の水泳部員と咲良だけ。
まさか、溺れてる……!?
そーっと浮きの端へ移動し、水底を覗こうとした瞬間。
「とりゃあ!!」
「きゃあぁ!」
突然浮きがひっくり返り私はまたまた水の中へ。
プールには私たちしかいなかったので、それが結奈の仕業だとすぐに分かった。
「ちょっと、結奈……? どこにいたの?」
「一人で乗っててズルいから底から急浮上してみた」
「せっかく乗れたのに!」
ポケットに忍ばせておいた水鉄砲を構えて結奈の顔へ連射する。
「あ、ちょっ……待って……どこでそんなもの」
「浮きの上に置いてあったの!」
プールサイドへ逃げようとする結奈へお構い無しにトリガーを連打していく。
こうやって使うことになるとは思いもしなかったけど……。
「それならこっちも……」
振り返った結奈は掌を水面に立て、抉るように真っ直ぐ腕を突き出した。
抉られた水が扇状に撒き散らされ、私の水鉄砲攻撃もかき消されてしまう。
「お、すごいっ」
「でしょ? もう一発っ!」
結奈が放った二発目の衝撃で、私の水鉄砲が吹き飛ばされる。
「強っ!」
「ごめんごめん。ちょっとやりすぎた」
「琴音〜、そろそろ出た方がいいんじゃない? もう一時過ぎたよ~」
「えっ……!」
咲良の一言でふっと我に返り、プールサイドの時計に目をやる。
午後の補習が始める一時半まであと十五分……。
服を着たままプールで水遊びをして補習に遅れたなんて先生にバレたらまずい。
「結奈! もう切り上げよう、時間ギリ!」
「嘘っ!?」
背徳感のある遊戯に興じたいのも山々だが、こればかりは仕方ない。
水鉄砲を浮きの上に返却してプールから上がった。
ザバッとスカートに染み込んでいた水が流れ落ちる。
着衣水泳なんて小学校以来だけど、制服でやるとこんなに重いなんて……。
ぴったりと肌にはりついたワイシャツの裾をスカートから出してはだける。
近くから上がった結奈も全く同じ状況で、二人して酷い有様だった。
「あーあ……」
ワイシャツ、スカート、リボン、ソックス……全身ずぶ濡れだ。
「……どうしようか、これ」
結奈がぎゅーっとスカートの裾を絞りながら言った。
「まあまあ、でもアタシが言った通り涼しくなれたでしょ?」
「とても涼しくなれました……」
確かに涼しいのは間違い無く。ただ得体の知れないこの高ぶりだけが心に残る。
暑さにやられたのは私の方だったのかもしれない。
「いきなり突き飛ばしたのは謝るよ。ごめんね。制服は更衣室に替えがあるから、それ使って。洗濯機とシャワーも使って良いから」
「替え?」
「実は服着たまま入る人って結構いるんだよね。あ、全員アタシが突き落としてる訳じゃないよ? 勘違いしないでね。それで、水泳部の方で制服の替えを用意することになっちゃって」
ふ〜ん、それなら……。
「結奈、補習終わったら行くよ」
「え、どこに?」
「そんなの決まってるじゃん。咲良、水泳部って何時まで活動してるの?」
「え、うーんと、この時期は四時くらいまでかな」
「じゃあ結奈、その後プールサイドに集合。続きやるよ。勿論制服で」
「はぁ!?」
こうすれば、また制服を着たままプールに入れる。
そのシチュエーションを作りたかったのだ。
「……っていうか琴音、流石にそろそろ着替えいかないとヤバイって!」
時計の長針が四を過ぎた後、私と結奈は教員室にあったタオルをひったくり、更衣室へと急ぐのだった。

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