『Mudness』

ホームルームが終わり、途端に騒がしくなった教室からさっと抜けて昇降口へ向かう。
桃華はバイトだし薫子は補習、真里奈は金欠で今日はいつものメンバーが揃わない。
皆で新作パフェを食べに行くつもりだったのに……まぁ仕方ない。
『今日は家でゆっくりしようかな』
そんな事をネット上でつぶやきながら階段を下りていると、踊り場で誰かさんとぶつかった。
「あっ、ごめんなさい」
伏し目がちに頭を下げたが、ちらっと見えた制服のスカーフの色にドキッとする。上級生だ……。
「歩きスマホ禁止っ! まったく、姉として恥ずかしいわ」
「えっ……」
顔を上げるとそこには杏南お姉ちゃんが怒りに握り拳を震わせていた。風紀委員の仕事中らしい。律儀に腕章までつけている。
私たちは双子でもないのに姿形は瓜二つ。声やヘアスタイルは多少違えど、黙っていれば私たちを見分ける術はない。自分がもう一人いるようなものだ。
「ちょっと……時間を確認してただけ」
面倒なので適当にあしらうことにした。
「それにしては何度も画面をフリックしてたみたいだけど?」
「……画面のロックを外してたの」
「あなたのスマホ、ロック中でも時計が表示されるはずよ」
「ぐ……」
流石成績トップ……頭の回転は早い。
「わかったよ……しまえばいいんでしょ」
観念してスマホをポケットに入れようとしたちょうどその時、通知のバイブレーションが鳴った。
さっきの投稿に反応があったのかもしれない。ここでまたいじり始めると次は何を言われるかわからないので、近くのラウンジに寄ることにする。
まだお姉ちゃんがこちらを睨んでいるが気にしない。
……ん? 私のクラスメイトがお姉ちゃんに声をかけている。
「皆川さんって風紀委員だったっけ?」
「私は姉の杏南よ、一年生。スカーフを見ればわかるでしょう?」
「す、すいません。似てたので……」
「……まぁいいわ。気を付けて帰りなさい」
「はーい」
ふと、面白そうな事を思いついた。
来ていた通知も見ず、私は事務室の方へ足を向けた。
落とし物が保管されている事務室前のガラスケースは、実は施錠されていない。
面倒な書類にサインしなくても、人目を盗めばそのままお持ち帰りできる。真里奈から教わった裏技だ。ちなみに財布などの貴重品は例外。
私はそこから二年生用のスカーフを拝借してトイレで付け替えた。
あとは髪を少し整えて……完成。
これで私は楓蓮から杏南お姉ちゃんだ。
鏡の前で、腕を伸ばして指を差す風紀委員のそれっぽいポーズをとってみると存外似ていて、思わず口角が上がってしまう。
ちょっと外に出てみよう。
廊下を歩いていると早速見知らぬ二年生から声をかけられた。
「杏南お疲れ~」
言葉には気をつけなくちゃいけない。今の私は皆川杏南、二年生なんだ。
「うん、お疲れ。また明日ね」
いつ見破られるかというスリル。姉になりすます非日常な体験。
それはもう普段入り浸っているネットよりも遥かに刺激的で、癖になってしまいそうだった。

さて。
せっかくだからもう少し踏み込んだ事をしてみよう。
風紀委員の特権と言えば、生徒会室に入れること。
普段行けないからちょこっと覗いてみよう。危なくなったらすぐ退散すれば良い。
別館への渡り廊下を抜けて、突き当たりの生徒会室のドアをそっと開けた。
「失礼します……」
誰もいない…………あっ、いた。奥のテーブルに一人。
書類にペンを走らせていた女子生徒が顔を上げて微笑んだ。
「あら、どうかしましたか? 杏南さん」
「……南天橋さん?」
確か生徒会の副会長か書記だったと思う。
「また何かトラブルですか?」
「あ、いや……近くを通ったから顔を出そうかなと」
上級生である彼女の顔と名前が一致していたのは、すれ違えば誰もが二度見してしまうような美貌の持ち主だったからだ。
整った顔立ちに艶やかなロングヘアがよく似合っている。
こういう人を清楚系お嬢様って言うんだろうなぁ。
「杏南さん。この後予定がないのでしたら、裏庭へ行きませんか?」
「……あー、えっと裏庭?」
見惚れてしまっていた。
「はい。一昨日は行きそびれてしまいましたから」
裏庭……どこのことだろう?
「もちろん、今日でなくとも構わないのですが」
「……ううん、行こう」
無考えに承諾してしまったのは単純な理由で、ちょっと面白そうだったから。向こうも気づいてなさそうだし。
「良かった。では早速、行きましょうか」
南天橋さんに促され生徒会室を出ようとすると、
「スクールバッグは邪魔になりますので、ここに置いていきましょう。心配しなくても、鍵はしっかりかけていきますから」
「え……でも、出かけるんじゃ?」
「置いて、行きましょう」
「う、うん……」
意図は読めなかったが、怪しまれても困るのでそこは素直に従った。

案内されたのは校舎裏の雑木林前だった。
生徒が立ち入らないよう背の高い有刺鉄線付きのフェンスが立てられていて、出入り口はぐるぐる巻きにされたチェーンと南京錠でがっちりと閉ざされている。
「……裏庭っていうのは?」
「この中です」
「ここ!?」
「そういえば、まだ言ってませんでしたね。ここは私の家の土地なのです」
「…………」
見た目に限らずステータスもお嬢様でした。
南天橋さんはポケットから取り出した鍵で手早く開錠し、林の奥へ連れて行ってくれた。
今朝の雨で湿った獣道を通り、しばらく歩くと開けた場所に抜けた。
中央には乳白色のプレハブが建っているほか、建築資材のようなものが所々積み上げられていた。
奥にはハシゴを積んだ軽トラックが一台、こちらに背を向けて停まっている。
「到着です」
「ここが……?」
「本当は再来週竣工の予定だったのですが、オプションを一部後回しにして、早めに遊べるようにしてもらいました」
「へ、へぇ~……」
ある程度舗装されてはいるものの、周囲の木が少し剪定されているくらいで、これを庭と呼ぶには無理がある気がした。
「この建物は?」
私はプレハブを指差して尋ねた。
「これこそ、杏南さんご所望のものですよ。中に上がってみましょうか」
最初は工事現場の事務所だと思ったけど、上がってみると中には何も置かれてなかった。
「床です。杏南さん」
そう言って南天橋さんは床板をはずし始めた。
一枚、二枚……はずされていく床板の下には、大きめのビニールプールが埋め込まれていた。
プールはグレーの泥のようなもので満たされている。
「深さ六十センチ、直径三メートル。独自のブレンドを施した泥で満たしました。殺菌処理済みですのでご安心ください」
「は、はぁ」
室内に田んぼ。お姉ちゃんはこんな場所で田植えでもするつもりだったのだろうか。
「杏南さん……今日は乗り気ではないのですか?」
「えっ」
「何だか反応が薄かったので……あの、何か気になることでもありましたか? もしあるのであれば気兼ねなく言ってください」
まずい……もうちょっとテンション上げていこう。
「ううん、そんなことないよ! 南天橋さんの勘違いだって。すごく楽しみにしてた」
自分で言ってて意味がわからない。
でもこれで窮地は脱した、ように思えた。
「それでは杏南さん、お先にどうぞ」
「へ?」
南天橋さんに背中を押され、泥濘に落ちそうになった。
つま先立ちになって両腕で何とかバランスを取り、転倒を免れる。
「わわわっ……ちょっと、危ないって!」
「フフ……ごめんなさい。でも落としてしまうというのも一興ではないですか」
「どこがっ!」
こんなとこに落ちたら大変なことになるでしょ……。
反省の色を微塵も浮かべない南天橋さんを見て、私は一抹の不安を覚えた。
「ではご自分でどうぞ」
どうぞと言われても……何がどうぞなのか。
「私は杏南さんの後に入りますから」
「…………」
入る……??
そんな、お風呂みたいに。
「杏南さん、本当に大丈夫ですか?」
全然大丈夫じゃないです。
入れと。ここに入れと!
何だかよくわからないけど、そういう儀式のようだ。
「……」
そーっとプールへ足を伸ばす。
ローファーで泥の表面をぺちぺち叩く。それなりに水分を含んでいて思ったより緩そうな泥だ。
ぎゅと口を結んで、つま先から泥へ入っていく。熱々のミルクの表面にできた膜を押し破るように。
「わっ」
くるぶしまで沈むともう足が届かないので、一気に太ももまで飲み込まれてしまった。
泥の中は適度に冷たいけど、にゅるにゅるしていてあまり心地が良いものではない。
もう片方の足もゆっくりと泥の中へ潜らせていく。
ローファーとソックスと私の白い足が、ダークグレーな泥の中へ消えた。
そのままプールの縁に腰かけて、どうしようかと考える。
……ダメだ。もう一線を越えてるよ……。
「あ、あのっ、南天橋さん」
怒られても仕方ない。
もう打ち明けようと口を開いた時だった。
「そろそろ」
南天橋さんが小さい声で遮った。
「ごっこ遊びはお仕舞いにしましょうか。『楓蓮』さん」
「!」
血の気が引いていくのを感じた。
そんな、変装は完璧だったはずなのに……。
「普通の生徒は騙せても、この私を欺くことはできません」
「……」
「杏南さんは私を南天橋さんとは呼びません。京華と名前で呼んでくれます」
「あ……」
詰めが甘かった。
ふと、お姉ちゃんに歩きスマホを見破られた時のことを思い出す。
「さあ、楓蓮さん」
私が泥プールの水たまりを眺めながら黙っていると、となりで南天橋さんも足を沈めてプール縁に腰をかけた。
南天橋さんはその白い手を泥の中にひたす。
「落とし物のスカーフを盗んだこと。杏南さんになりすましたこと。そして、この私を騙そうとしたこと。どうやって責任を取りましょうか」
南天橋さんは泥まみれの手を私の胸元へ押し当ててきた。
白のセーラー服にべったりと泥がつく。
「ご、ごめんなさいっ! 騙そうなんてつもりじゃなくて……出来心で」
後悔した。胸が早鐘を撞く。
私は、取り返しのつかない事をしてしまったかもしれない。
「ごめんなさい……」
どんな懲罰が待っているのかとビクビク怯えていた私に返ってきたのは、生徒会室で会ったときと同じ微笑みだった。
「冗談です。顔を上げてください、楓蓮さん」
「えっ……」
「脅かしてごめんなさい。私に付き合ってこんな所まで来てくれたので、今回だけは不問にします。ただ、なりすましはもう二度としないでください。結構見分けるのが難しいんです」
「はい……すみません」
一呼吸入れた後、南天橋さんはおもむろに立ち上がって口を開いた。
「知りたいですか? この場所が、このプールが何なのか」

「世の中というのは広いもので、汚れることを好む方々が存在します」
「南天橋さんも?」
コクリと首肯する南天橋さん。
「このように……」
南天橋さんは肩まで泥プールに浸かった後、ゆっくりと立ち上がった。
ボトボトと泥の塊を落としながら、グレーに染まった制服が露わになる。
襟もスカーフも、もうほとんど形がわからない。
「どうでしょうか」
「なんかすごい……シュールな感じ?」
「変に捉える必要はありません。ただ感じるだけ。プラトニックに」
「……どうすれば、いいですか?」
「楓蓮さんのしたいようにしてください」
「じゃ、じゃあ、南天橋さんと同じように……」
「肩までいってみましょうか」
一度立ち上がり、ゆっくりと腰を落としていく。
広がったスカートを手で沈め、腰のあたりまで泥に沈む。
身体が泥に圧迫され、じわっと水気が肌に触れる。
「……すごく変な感じ。いけないことしてる感ある」
「それが良いのです」
ぐちゅりぐちゅりと音を立てて、腰から胸、ついには首まで泥プールに浸かってしまった。
滑らないよう、ゆっくりと立ち上がる。
制服はもう元の色がわからない。水と泥を吸ったスカートはべったりと太股に張り付いている。
こんなに汚れることなんてありえないのに、いけないことなのに……。
「お二人はよく似ていますね。杏南さんも、最初はそんな反応でしたから」
「子供の頃に戻ったみたい」
「私たちはもしかしたら、遊び足りなかったのかもしれません。少しずつ、できることとできないことがはっきりとしていきますからね……。さあ、続きをしましょうか」
「次は?」
期待している自分がいる。
「一度これ、やってみたかったんです」
南天橋さんが持ってきたのはバケツだった。
「汲んで頭からかけてみましょう。私は楓蓮さんにやりますから、楓蓮さんは私にやってください。お先に、どうぞ」
「あ、頭から!?」
「はい。遠慮はいりません、思いっきりやっちゃってください」
「…………」
並々とバケツに泥を汲み、南天橋さんの頭の上で傾ける。
「本当にいいんですか? やっちゃいますよ!?」
「ええ。いつでも来てください」
「……」
ボタボタと落ちる泥の塊が、南天橋さんの黒髪を汚していく。
額を伝って顔に流れ、白く綺麗な南天橋さんの肌が見る影もなくなっていった。
泥で全身をコーティングしたかのようだ。
全てかけ終わると、南天橋さんは目元を拭って破顔した。
「最高です」
「なんか、すみません。頼まれたとはいえ、髪を汚すだなんてすごい罪悪感が……」
「これで私だけ被るならそうかもしれませんが……楓蓮さんもやるんですよ?」
そう言って南天橋さんは私からバケツを奪い取ると、泥を汲んで私の頭上に持ってくる。
「ちょっと怖いです」
「そう思うのは最初だけです」
頭上にバケツがあることはわかっても、いつ中身が落ちてくるかはわからない。
一秒後かもしれないし、一分後かもしれない。
そんな事を考えているうちにボタリと頭頂部に重みを感じた。
「ひんやり……」
「さらにかけますよ?」
クリーミーな泥が頭を包み込むように、トロトロと首元へ流れていく。
「……いかがですか?」
「冷たくて……にゅるにゅるする」
「きっとお肌にも良いですよ」
「おおっ!」
確かに泥パックとかあるし、これは中々良いかもしれない。
ただ……。
「すごいことになってる……」
汚れたセーラー服の裾を掴んで、自分の姿を再確認する。
子供の頃でもここまで泥だらけになったことはない。
楽しいというか、不思議な感覚だった。
「今日はこの辺にしておきましょうか」
外のシャワールームで身体を洗ってから、私たちは外へ出た。
替えの制服は南天橋さんに貸してもらったものだ。
「はぁ~、なんだか泥パックの感覚が恋しいなぁ」
「また来ますか?」
「いいんですか!?」
「もちろんです」
こうして、私には秘密の関係を持つ友達ができた。

後になって、気になったことが一つだけ。
お姉ちゃんは南天橋さんのことを京華と名前では呼んでいないみたい。
じゃあどうやって私が妹だと見抜けたんだろう?
……まあ、いっか。