『The Sunrise』

「非常時は避難経路に沿って避難しろよー」
大島先生が顔を覗かせる。
「あー、それとな。ここは非常ベルと共に消防署とかに連絡がいく。便利だな。それじゃ、避難経路は後で確認しておけよー」
ドアが閉まり、部屋を静寂が支配した。
「……で、なんであなたと私が一緒の部屋に……」
思いの外豪華だった部屋の隅にキャリーバッグを置きながら、私は呟いた。
本来ならば窓の奥に広がる海と夕日に酔いしれるべきところを、相部屋という運命が無慈悲に壊してくれる。
呉越同舟をここまで再現できた画を私は見たことがない。
「旅行委員は何を考えてるの……」
大きな溜め息と共にベッドへ腰掛けた。
これまた予想以上にふんわりと柔らかいので、少しずつ苛立ちが募っていく。
私と正反対の位置にキャリーバッグを置いた、かのやんごとなき生徒会長、桜坂亜夜乃は派手なドレスを揺らしながら適当な椅子に腰を下ろす。
あれが修学旅行に来る格好なのか……。
『高校生らしい、華美でない格好』という決まりを気持ちいいくらいに無視している。
「あら奇遇ね。今私も全く同じ事を考えてたわ」
交互に漏れる溜め息。
学校行事の最高峰に位置する修学旅行が、まさかこのようになってしまうとは思わなかった。
きっかけは先月。
私の悪夢のローション地獄から二週間が経った頃、修学旅行の部屋割りを決めることになったのだ。
『好きな人と自由に組んで六人のグループを作りましょう』
この時はまだ良かった。
嬉々として男女達が仲の良い同性と組んでいく中、どうしても余ってしまう生徒が続出。
余った人は余った人同士で組めばいいという意見も先生の采配に一刀され……。
延々と決まらない部屋割りに下された決断は、旅行委員会とその担当、大島先生による独断決定だった。
そして、楠柚と桜坂亜夜乃というあってはならない組み合わせが誕生した。
それもクラスに一つの女子二人組。
部屋割りを初期化出来るほどの拘束力を持つ桜坂亜夜乃の特別権限、生徒会長権限は三ヶ月に一度しか発動できないというデメリットを持っているために、今に至る。
「……それにしても、こんなに油断できないとは」
私の座っている数センチ後ろ、ベッドの中心にべっとりとローションが塗ってある。
もし気を緩めてベッドに身を投げていたらトラップにかかっていた。
「…………」
亜夜乃は一瞥しただけで特に大きな反応を見せない。
かからないことを予め知っていたかのようだ。
でも、私だって何もしてない訳じゃない。トラップだって用意はしてある。
「そうそう、備品を確認するように言われてるからユニットバスを見てきてくれない?」
「……いいわ」
おもむろに立ち上がって亜夜乃はユニットバスへ。
「あれ、どうして水が……?」
洗面所の辺りから亜夜乃の声が響く。
果たしてひっかかるかどうか……。
暫くすると戻ってくる。
表情は全く崩れていない。
凛と髪をかきあげてから、言った。
「あなたも、ここまで用意周到だとは思わなかったわ」
私の罠は湯船の中だ。
湯が張ってあって無意識に手を入れることを想定していた。
何も疑わずに手を突っ込めば高粘度のローションに絡め取られる仕組みだ。
と言ってもお互い猜疑心はフル稼働している。
引っかからなかったのは当然の流れだった。
「……修学旅行って何日間だっけ?」
ふと疑問に思ったことを口にしてみた。無言よりは遥かにマシかもしれない。
「四日間よ」
冗談じゃない。四日間もこんな緊張生活をしていたらどうにかなってしまいそうだ。
「あなたとだと安心して眠れない」
「私もよ、先が思いやられるわ」
この局面、どう切り抜けよう。
仲間のいる部屋で過ごすのも手か。
廊下から聞こえる慌ただしい足音。
私の部屋だけじゃなく、ホテル全体の空気が緊張しているように思える。
もしかすると小競り合いじゃ済まなくなるかもしれない。
僅かな沈黙の後、私の携帯電話が鳴った。
ピピピピピ……。
亜夜乃の視線が微かに動いた。
「…………」
ポケットに手を伸ばそうとしたところで躊躇う。
「……出てあげたら? 鳴ってるわよ?」
私がすぐに携帯電話を取り出さないのは、焦燥感を見せないためだ。
内容を聞かれても困るので部屋からさっと出て端末を開いた。
ウィンドウには見慣れた文字。
谷口愛梨――私の仲間だ。
「もしもし」
『柚、大丈夫?』
大丈夫、とは体調を気遣ってくれているのではない。
私たちの一触即発状態を気にしての言葉だった。
「なんとかね」
本当は怖い。心臓だって破裂してしまいそうなくらいバクバクいってる。
『今夜の話についてなんだけど……』
愛梨の声が小さくなる。
「……ちょっと待って、人気のない所に向かうから」
ロビーを横切って非常階段の近くへ行く。
ここなら誰にも聞こえないだろう。
『もういい?』
「うん、お願い」
『実は今夜――』
愛梨から、私は不都合な事実を聞いた。
内容は二つ。両方共に想定外だ。
一つ目は桜坂亜夜乃を中心とする生徒会勢力が今夜『極めて』大きく動くだろうということ。
各メンバーからの情報だ。生徒会側の動きが怪しいらしい。
二つ目は生徒内で妙な話が流れているということ。
前者は非常に厄介だ。対抗策をすぐにでも出さないといけない。
だが後者はどうだろう。
愛梨によれば、ホテル内で怪しい人物が目撃されているのだという。
こちらも無視できない。
緊急事態、というのもあり得る。
『どうする?』
「……とにかく、みんなに単独で行動しないように伝えてくれる?」
『柚はどうするの?』
「私はあなたと合流する。入浴時間が終わったらロビーに来てくれる?」
『わかった、柚も気をつけて』
「うん」
今夜は騒がしくなりそうだった。

「ははは……」
暗闇に響く笑い声。
決して馬鹿笑いではなく、落ち着きを払った声だ。
砂時計を片手に、彼は懐から小さめな鍵を取り出した。
部屋のランプが鍵を鈍く光らせる。
「準備はどうだい?」
「…………完璧」
唯一の灯りも届かない、どろどろとした闇から少女が応えた。
小さく、それでいて無感情な声だった。
ダクトからの風が彼の髪をなびかせる。
「そうか、はは、ははは……」
砂時計を傾けると、音もなく砂が流れる。
その砂が全て落ちて山になった頃、彼は鍵を闇の中に放り投げた。
落ちる音はない。ただ受けとる音がした。
「主電源の鍵だ、使ってくれ」
「…………うん」
「今夜は派手になりそうだ」
また、彼は砂時計を傾けた。
「…………楽しみ」
一分と経たないうちにまた、彼は砂時計を傾けた。
「籠の中の鳥が四羽。さて、どうなるかな」
「…………マコは?」
「僕は遠慮しておくよ。流れを見たいからね」
「…………わかった」
「でも――」
また、彼は砂時計を傾け『なかった』。
その代わり、投げて、壊した。
支柱が外れ、硝子が床に飛び散る。
砂が風に乗って舞った。
「彼女たち次第で、僕も動くことになるだろう」
「…………」
ホテルの機械室、ちょうど日が落ちる頃だった。

「柚~」
「お待たせ、愛梨」
美味しいのに素直に堪能できない夕食を済ませた後、入浴を終えて愛梨と合流した。
「今夜はどうすんの?」
声を潜めて愛梨が耳元で囁いた。
「愛梨、部屋に入れてもらってもいい?」
「そりゃ構わないけど……」
「ありがとう」
人が多いこともあって、私たちは一階のロビーに向かって歩き出した。
慣れているはずの寝巻が、階段を一段降りるごとに肌に擦れ、違和感になる。
でも私はこの違和感が嫌いじゃない。
こんな状況あっても、私の心は少しでも修学旅行を楽しもうとしていた。
「柚、寝るまでどうしよっか?」
「おみやげ……は早いもんね」
一際明るいおみやげ屋も、一日目だと人はまばらだ。
「お、あれなんてどう?」
愛梨が指差す先に視線を向ける。
「エステ?」
「ほら、マッサージとかあるじゃん? まだ若いけど一度やってみたかったんだよねー」
「愛梨が、したいなら」
話なら聞いたことはあるけれど、エステサロンなんて初めてだ。気になる。
「じゃ行こっか、すみませーん」
愛梨が奥にいた店員を呼んできて簡単な受付を済ませた。
「それでは、こちらにどうぞ」
アロマ漂う店内を案内される。
少しくらい、修学旅行なんだから楽しんでもいいよね……。
私たちが頼んだのは背中のマッサージだった。
よくテレビで芸能人とかがやっているのを見たことがある。
それと同じような台に寝かせられてマッサージは始められた。
柔らかな手が背中を揉みほぐしていく。
とても気持ちいい。疲れがすっと吹き飛んでしまう。
しなやかな両手に身を委ねると、心がふわふわと浮いてくる。
快感にうとうとし始めた頃、愛梨が感動のあまり声を高く上げた。
「くー! いいねー、マッサージは」
恍惚状態だった。
「確かに気持ちいいね」
「柚疲れてるでしょ? あの時から、大して休めてないもんね」
あの時。
思えばそれが全ての始まりだった。
「『生徒総会』のこと?」
「そう、柚はあれがあったから……」
私、楠柚と桜坂亜夜乃との対立。
始まりは春の生徒総会だ。
私がまだ『生徒会副会長』だった頃。
私と亜夜乃は最高のペアだった。
難しい案件も知恵で解決し、学校のほころびを一つずつ片付けていった。
徹底的な倹約で浮いた予算を使って、施設を増やしたこともあった。
亜夜乃と二人で遊んだことも……。
そんな中、一つ難問が舞い込んだ。
設備増築に関するものだった。
増築希望の多いバスケットゴール増設と、増設希望のあまり多くないサッカーゴール増設。
予算的に、選べるのはどちらか一つ。
私はバスケットゴールの増設を、亜夜乃はサッカーゴールの増設を推した。
私たちは退かず、長い間対立が続いた。
繰り返しの説得でようやくバスケットゴールの増設で合意する。
そして、生徒総会での決議報告時。
桜坂亜夜乃は、生徒会長権限を行使してサッカーゴールの増設を強行したのだ。
生徒会長権限の前では手も出せず、報告が覆ることも、発言が取り消されることもなかった。
私は次の週に執行部を途中で抜けた。
約束したはずなのに。
亜夜乃はどうして……。
スライムプールは復讐だった。私が計画したものだ。
それで亜夜乃は反省したのだと思った。
が、今度は私にローションが返ってきた。
これではイタチごっこだ。
復讐は復讐を生む。
「柚。そんなに考えても仕方ないよ」
「えっ?」
愛梨の声が優しく私の耳に触れる。
「柚が真実を知りたいんならさ、もう一回、直接聞いてみたら? 本人に」
「もう一回……」
生徒総会直後、亜夜乃を問い詰めた。
なぜ約束を破ったのか、それは生徒会長権限を使ってまで実現させなければならないことだったのか。
亜夜乃は何一つ答えずに私の目の前から消えた。
「ダメなら何度でも当たってみる。そしたらいつか反応してくれるって」
「何度でも……」
「私たちは柚をサポートすることしか出来ないから、本人と直接話せるのは柚だけだよ」
いつもより愛梨が頼もしく見えた時、狙ったかのようにマッサージが終わった。
午後十時を過ぎていて、私たちは部屋に戻った。
私は愛梨の部屋に泊まることになる。
事情を説明して布団を用意してもらった。

午後十一時。もう既に就寝時間は過ぎている。
桜坂亜夜乃を中心とする生徒会メンバーはとある一室に集結していた。
男女総勢二十人近くが丸くなって固まっている。
「会長、準備は出来てます」
書記の静村が力強く言った。
軽く頷いて亜夜乃は立ち上がった。
皆の視線が彼女に注がれる。
「今日こそ、生徒会活動妨害を行う反対勢力を無力化します」
しんと静まり返った部屋に亜夜乃の声が響く。
「作戦は十一時十五分から始まっている先生方のミーティング中に行います。ちなみに、私の腕時計だと今は十一時二十六分です」
腕時計を頼りに静村が付け加えた。
「あ、電波ですよ? 電波時計。ズレたりしてないですよ?」
「今回の作戦は、過去に例のない大規模なものです。早々に決着をつけます」
慌てる静村を横目に亜夜乃は進める。
「まず、睡眠中の彼女らの部屋に侵入。一階大浴場前に集めてください。抵抗する場合は力尽くで」
「……大胆ですねぇ」
端から声が上がる。
執行部補佐の徳江だ。
不本意にも思える彼の発言に突っ込むこともなく亜夜乃は説明を入れた。
「確実に生徒を集めるためです。多少強引にでも作戦遂行を」
「了解っす……」
「では、作戦開始!」
一斉に生徒たちは動き出した。
所定の位置に二人一組で向かい、目標のいる部屋の前で突入の指示を待つ。
少し離れた場所で同じように部屋の前で待機しているペアが見えた。
静村とそのペア、天田が後ろにいる亜夜乃に目配せする。
亜夜乃からゴーサインが出される。
「よし、突入!」
部屋に入り込もうとしたその瞬間――。
ガチャン。
大きなスイッチ音と共に廊下が暗闇に包まれる。
「静村さん! これは!?」
「これは……ど、どうなってるの……?」
少し遅れて非常ベルが両耳を突き抜ける。
甲高い悲鳴が、悪夢の始まりだった。

腕時計に視線をやる。
「十一時半か。就寝時間から約一時間……先生方はミーティングルームで会議中だろう」
いつでも始められる時間だ。
「…………もういい?」
「そうだね、始めようか」
部屋の隅に置かれた大型の装置。
開けられた側板から目に付く大きなレバーが顔を覗かせていた。
そのレバーに、彼女は手をかける。
「…………主電源、停止」
ガチャン――。

「これは……ど、どうなってるの……?」
「静村さん、作戦は中止なのかな……」
天田が不安げな顔を見せる。
「会長の判断を、待たないと……。今日という好機を逃すわけには……」
少しずつ目が慣れて視界が広がってきた。
廊下に沿って並ぶ非常灯が不規則に点滅している。
いや、点滅しているんじゃない。瞬間的に遮られているんだ。
続々と生徒たちが部屋から飛び出していた。
「エレベーターが動かない!」
「しょうがない、階段で降りよう!」
「どうすればいいの!?」
「非常ベル鳴ってるし、とにかく逃げないと!」
「ここにいた方がいいんでしょうか……」
「何言ってんの、あんたも逃げるのよ!」
彼女たちは狭い階段に大挙して押し寄せる。
大小様々な声が飛び交い、誰かが転び、それを誰かが助けようとして人の波が狂う。
パニックの一言に尽きる状態だった。
「……静村さん、これはもはや緊急事態ですよ! 作戦を中止しー-」
「生徒会執行部!! よく聞いて!」
その時、鶴の声が聞こえた。
矢の如く廊下を一気に突き抜ける、亜夜乃の声が。
「原因はわかりませんが緊急事態です! 執行部役員は生徒を誘導して正面玄関から避難させてください!」
「り、了解です!」
顔は見えないけれど、十数名の声は重なった。
「私は今から他の脱出経路を探します! 天田さん、一緒に来て!」
「はっ、はい!」
亜夜乃は天田の手をしっかりと握りしめる。
「静村さん、後はお願い!」
「任せてください!」
そのまま近くの部屋に入り込んだ。
真っ暗な部屋に月明かりが差している。
「会長、ここからどうするんですか?」
「ここの窓から二階の屋根部分に飛び移るわ。そこから下にある露天風呂に飛び込めば一階まで行けるから」
二階の屋根までは特に大きな障害がない。手すりを乗り越えるだけだ。
「え、じゃあここから生徒たちを誘導してあげれば……」
「可能だけど、集団では危険過ぎるわ」
硬めの窓を開けて、亜夜乃は手すりに足をかける。
すうっと冷たい空気が入ってきて天田の身体を震わせた。
軽い身のこなしで手すりを乗り越えた亜夜乃に天田が続く。
靴は履いていなかったが、気にならなかった。
屋根の縁に亜夜乃は近づいていく。
下を覗くとちょうど露天風呂の上であることが分かる。
不安の表情を浮かべる天田に、亜夜乃は顔を緩めて言った。
「大丈夫、安心して。お風呂の中は全部ローションにしてあるし、ここの露天風呂は凄く広いから」
「え、ええぇ!?」
「なるべく頭からとか足とかは飛び込まないように。浅いから怪我をするかもしれないわ」
「は、はい……」
「後でクリーニングしてあげるから、行くわよ」
亜夜乃は再び、さっきよりも強く天田の手を握った。
「行くよ、せーのっ」
目を瞑って身体を空中に放り出す。
一瞬の無重力の後に全身に冷たい感触。
ローションのおかげで身体はあまり沈まない。
その代わり服は粘着性の高い液体にまみれてしまう。
顔を振るって、亜夜乃は浴槽から上がる。
重くなったドレスをなんとか整えて亜夜乃は天田に手を差し伸べた。
「静村さん、大丈夫?」
「だ、だいじょうぶですぅ……」
寝巻として着ていたジャージが目も当てられない状態だ。
「何か、ごめんね」
「い、いえ! 気にしないでください。大丈夫ですから」
そう言う彼女の髪から顔にたらーっとローションが垂れるから説得力がまるでない。
ピピピピピ……。
「あれ……会長、携帯鳴ってますよ」
「うん。てっきりローションで壊れたかと思ってた」
防水携帯はどうやらローションにも耐えるらしい。この場合はレアケースかもしれないけど。
電話は生徒会役員からのものだった。
拭く物がないのでそのまま汚れた手で耳に当てる。
通話ボタンを押した直後に雑音が聞こえる。生徒たちの声だ。
『会長、大変です!』
「どうしたの?」
『開いているはずだった正面玄関が閉まってたんです!』
「どういうこと!?」
そんな馬鹿な、と思った。
停電直後では正面玄関のみ開いているという報告があった。
だからこそ亜夜乃は正面玄関に生徒を誘導するように指示したのだ。
それが誤情報ならば、正面玄関が閉まっているのならば、さらなる混乱は免れない。
『何故かはわかりません。どうすればいいのでしょうか?』
「…………」
言葉に詰まる。こうなってしまった以上具体的な対策が出せない。
非常ベルを通じて消防署や救急車には連絡されているはずだ。
『あ、会長!』
「何?」
『裏の出入り口が開いているみたいです! 谷口愛梨という生徒からの情報です』
挙がった名前にピンとくる。
それが、生徒会反対勢力の主要メンバーの名前だったからだ。
「なら、その裏の出入り口に天田を送るわ」
『助かります!』
会話を聞いていた天田は大きく頷いてその場を後にした。
『えっ……本当か!?』
「何かあったの?」
『会長、ミーティングルームが外側から施錠されてるみたいです! 大島先生から連絡が入りました!』
「外側から……!」
一つ、はっきりした。
これは機器系統のトラブルなんかじゃない。
誰かが計画的に仕組んだものだ。それも、悪質極まりない。
「そっちに静村いる?」
『えーっと……はい、います!』
「彼女をミーティングルームに送って! あなたと他の役員は生徒を裏に移動! 私は他に出口がないか探すわ」
『了解です!』
「じゃ、切るわね」
とにかく、これでなんとかなるはず。
大きな溜め息を漏らしてゆっくりと歩き出す。
安心したのも束の間、そこにいるはずのない人物がいた。
「亜夜乃……」
「柚……。なっ、何であなたがここにいるのよ?」

亜夜乃はやって来た。
根拠があったわけじゃない。ただ、来ると思っていただけ。
「亜夜乃……」
服が液体で濡れているようだけど、今そんなことは関係ない。
「柚……。なっ、何であなたがここにいるのよ!?」
「亜夜乃。これ、あなたがやったの?」
「えっ……?」
「この事態。あなたが引き起こしたんじゃないの?」
「ち、違うわっ! 柚がやったんでしょう!?」
「私は違う。なら、誰が!」
「知らないわ!」
「あの時も、亜夜乃はそう答えた。生徒総会の時……」
生徒総会直後にかけた私の質問に、亜夜乃は知らないとだけ言い張った。
「…………」
「教えて! 何故真実を話さないの!?」
「…………」
亜夜乃は、答えない。
「ねえ、答えて!」
「……状況が状況だから、生徒総会のことは日を改めて話すわ。でも、今回のは知らない!」
「…………本当に?」
なら、この事態は誰がどんな目的で引き起こしたのか。
私たち以外の第三勢力とでも言うべき存在がいるのだろうか。
「本当さ。僕がやったことだからね」
聞き慣れない声がした。
「だ、誰!?」
声の方向を向くと、そこに彼はいた。
亜夜乃がさっきまでいた二階の屋根部分。
「男子生徒……?」
声は男性、顔は中性的だ。
ブレザーを羽織り、片手に砂時計を持っている。
「君たちがこんな行動に出るなんて思いもしなかった」
「あなたが、やったのね?」
「僕がやったのは正面玄関とミーティングルームの施錠くらいさ。他は藍那がやってくれた」
どこからともなく少女が目の前に現れる。
メイド服姿の可愛らし気な女の子だ。
文脈から判断すると、この子が藍那か。
「…………」
彼女は何も喋らない。
露天風呂の出入り口付近にじっと立っていた。
「修学旅行でこんなパニックを起こして……許せないわ!」
「おいおい、勝手にパニックになったのは君たちじゃないか。僕は混乱を作ったわけじゃない。僕は舞台を作ったんだ」
彼は勝手な屁理屈を並べていく。これでは子供と同じだ。
彼がこの事態を引き起こしたと考えるだけで怒りが込み上げてくる。
「それがパニックの原因じゃない!」
「まぁ、今回は楽しめたからね。よしとするよ。後は藍那に任せよう」
「藍那……。生徒名簿によく目を通すけど、そんな名前聞いたことがないわ……」
亜夜乃が訝しむと、彼は嘲笑で返した。
「名簿には載らないようになっているから、知っているはずもないだろう。彼女の名前は、茜林藍那。れっきとした三年生だ」
「三年生がどうしてここに?」
上下関係で敬語を使う人はいるが、これは二年生の修学旅行だ。
他学年はいない。
「そんなことはどうでもいい。今は、君たちが邪魔だ」
「えっ……?」
石のように動かなかった藍那の鋭い眼光が動く。
青い目だ。獲物を見据える碧眼。
「…………覚悟はいい? 本気で行くよ」
藍那は腰を落として構えた。
「言っておくけど、藍那は強いよ。果たして君たちは朝陽を拝めるだろうか」
強烈な胸騒ぎを感じる。
本能のイエローシグナルだ。
「…………マコ、全力?」
「そうだね。彼女たちほどのイレギュラーはこの学校に必要ない」
「…………了解」
「それじゃあ、せいぜい頑張るといい」
窓から彼の顔が見えなくなる。
「な、ちょっと……待ちなさい!」
「…………あなた、自分のことを気にしたら?」
垣間、幻想を見た気がした。
私たちから十メートルは離れていたであろう藍那が瞬く間に目の前へ移動した。
これはもう人の認識限界を超えている。
手品としか説明のしようがなかった。
「しまっ――」
声と同時に亜夜乃がローション風呂に着水する。
「亜夜乃!」
亜夜乃の飛ばされ方を見るに、柔道の投技をかけられたように見えた。
この生徒、何者!?
機動力と跳躍力が常人の比ではない。
漫画とかアニメの世界の速さだ。
「茜林先輩……でいいですか?」
私は無意識に効果の望めない時間稼ぎをしていた。
口で抑えられる相手じゃないのに。
「…………何?」
「柔道とかやってます?」
「…………ううん」
「空手とか合気道とか」
「…………やってないよ」
華奢な顔がこちらを向いた。
「我流、ですか」
「………それも違う。あなたに教える必要もない」
藍那は再び構えの体勢に入る。
慣れた様子だ。素人の私たちとは桁違いに強い。
彼女の動きは内燃機関を持っているようにも見えた。
力を限界まで圧縮して点火装置で爆発させる。
「ぐうぅ……!」
気がつけば私の身体は宙を飛んでいた。
抵抗もままならずローション露天風呂に叩き込まれ、ローションが服ごと全身をぴったりと包む。
三度目でも、この感覚には慣れそうにない。
「ぷはーっ! はー……亜夜乃、大丈夫!?」
いくら敵同士とはいえ声をかけられずにはいられなかった。
亜夜乃は顔についたローションを払いながら数回頷いたが、息は荒い。
「柚、私たちに勝ち目は無さそうよ」
「まだ決めつけるのは……早いと思うけど?」
「苦しみたくないならおとなしくしてた方がいいわ」
「負けと決まったわけじゃない」
諦めたくなかった。
仲間も今、生徒や先生を助けようと必死になって動いてくれている。
こんな時、どうすればいいのだろう。
逃げる。
無理だ、安々と逃げられるような相手じゃない。
助けを待つ。
これも無理だ、助けが来るような状況ではない。
戦う。これしかない。
でも私には藍那のような卓越したアビリティはない。
平均的な身体能力を持つ女子高生だ。
相手の微小な隙を見つけて、そこを集中的に狙う他ない。
藍那は豹で、私はガゼル。
力では絶対に解決しない、アイデア一発の大勝負。
「…………どうしたの? 戦意喪失?」
這い上がって再度対峙する。
藍那が動いたその瞬間、ぴくりとだけ身体を動かせた。
それでも間に合わずに技を受ける。
「くっ!」
私の身体は空中へ投げ出されて再びローション風呂へ。
不快な音と共にニュルニュルとした感触。
私はすぐに立ち上がって構える。
攻撃の瞬間を見極める。
攻撃には必ずパターンがある。
接近、攻撃準備、攻撃、後退、待機という様に相手の動きを各フェイズに分けて読み取る。
といっても私は素人だから一筋縄ではいかない。
あれだけ早かった動きに、やっと反射神経が慣れてきた感じだ。
藍那を止める方法は一つだけある。
あの俊敏な動きの隙を突いて、ローション風呂に投げ込む。
粘度の弱さに多少懸念があるけれどこれしか方法はない。
「…………諦めが悪い」
「往生際が悪くてごめんなさい。生憎こんなところで諦めたくないので」
「…………」
少し、場所を変えよう。
何か見つかるかもしれない。
露天風呂の端へ向かって走ると、子供用の入浴施設が見えてきた。
すべり台や動物のシルエットをかたどった浴槽はさながら遊園地だ。
「あのすべり台、もしかしたら使えるかも……!」
私の脳内でプロットが組まれていく。
そのプロットが、完成半ばで止まる。
必要な物が一つだけ足りなかったからだ。
粘度の高いローション、足りないのはこれだけだ。
これがあれば対抗できる。
「…………逃げても何も変わらない」
かなり距離を取っていたつもりなのに、藍那はもう目の前にいた。
「ううぅ……」
投技を食らって浅めの浴槽に尻餅をついてしまう。
すべり台のある浴槽だ。
なるほど、すべり台で滑るとこの浴槽に入り込むようになっているという訳だ。
「あれ……」
ふと、直感的に感じた。
藍那の動きが見えたのだ。
あの真似出来ない芸当の正体が。
藍那の動きはストライドが狭い。加えてストライドには一定のストロークが存在している。
短い動作のセットを連続的に行なっているのだ。
もしこの連続動作が、藍那の回避動作兼高速移動のベースとなっているのならば、プロットのピースが一つ埋まる。
さらに直感と違和感が混じり合っていたことに気付く。
身体を起こそうとしても、ローションに絡め取られて中々抜け出せない。
止まっていたプロットが、最後のピースを揃えて完成する。
藍那を止める材料は揃った。計画も完成した。
あとは彼女の力を借りるだけだ。
彼女は絶対に断らないだろう。私はそう確信していた。
希望の光が私にかつてない力を与える。
ドロッドロのローションから抜け出して亜夜乃の元へ急ぐ。
少しずつ、空色に変化が現れていた。
「もう、こんな時間……」
もう夜明けだ。
生徒と先生は避難出来ただろうか。
「……亜夜乃、大丈夫?」
亜夜乃は浴槽に入ったままだった。
表情からも疲れが見て取れる。
「なんとかね」
「藍那を止める方法、見つけたよ」
「えっ?」
亜夜乃の顔が上がる。
驚きと期待の両方を滲ませた表情だった。
「でも、それは一人じゃ出来ない……」
「……」
どこか遠くを見つめるように、私は朝焼けの空を仰いだ。
「亜夜乃、今だけあの時を取り戻さない?」
「柚……」
「『一人で無理なら二人の力で、』」
「それって……」
私たちがペアだった頃の生徒会スローガンだ。
「もしかしたら、切り抜けられるかもしれない」
「今だけ……」
「そう」
亜夜乃の口元が少しだけ緩んだ気がした。
「…………いいわよ。でもー-」
「『やるからには全力で!』」
二人の声が久しぶりに重なる。
私の伸ばした手を取って、亜夜乃はローションから、『今』から、這い上がる。
「すべり台の傍にあった粘度の高いローションに藍那を叩き込む。ついて来て」
「わかったわ」
そしてその時、ちょうど朝陽が地平線から顔を出した。
今まで見たことがないくらいに赤く、熱く、大きい太陽。
その陽をいっぱい浴びて、失われたはずの力がさらに湧いてくる。
私と亜夜乃は手を繋ぎ、太陽を背にして藍那と対峙する。
眩しさに藍那は手で顔を覆った。
「…………眩しい」
「亜夜乃、行くよ!」
「うん、柚」
すべり台まで全力疾走。
途中、山積みになっていた桶を拾う。
「亜夜乃、ローションで藍那の視界を塞いで」
しっかりと頷いた亜夜乃は移動中に浴槽からローションを汲む。
それを藍那には隠さない。
これで、藍那は亜夜乃がローションをかけてくると予想する。
つまり回避行動を取るということだ。
藍那の高速移動の実態は回避行動の連続だ。
移動ではなく単に避けるだけなら基本動作を一セット取るだけ。
その到達地点は後方だ。
「亜夜乃!」
私の合図で亜夜乃がローションを藍那にかける。
読み通り、藍那はそれを避けた。
藍那はすっかり避けたつもりでいる。
でも、ローションを汲んだのは亜夜乃だけじゃない。
「はあっ!」
回避した後の無防備な藍那に向かってローションをかける。
粘度があるせいで飛距離はなかったがしっかりと藍那の顔面を覆う。
「う……なに、これ」
ローションは初めてだろうか。
顔や髪についたローションを払うその姿はどこか昔の私に似ていて、少し申し訳ない気持ちになってしまう。
でも、私と亜夜乃をローションまみれにしている以上当然の報いだ。
これで少しは藍那の視界を下げられた。
あとはすべり台に向かうだけだ。
藍那はローションをかけた私に目標を絞るはずだ。
亜夜乃はすべり台の下に、私は上に登っていく。
藍那はこれまた予想通りに私の後を追ってくる。
私は一足早くすべり台を滑った。
後ろ姿を見た藍那は、きっと行く先にローションがあろうがなかろうが追ってくる。
そこで私は、最後まで滑り切らない。
途中で端を掴んでそのまま飛び降りる。
怪我をしてしまうような高さだけれど、そこには彼女がいてくれる。
亜夜乃が私をそっと抱きとめた。
「ありがとう、亜夜乃」
「どういたしまして」
「え……きゃあぁ!」
ぼちゃん、と情けない音がした。
藍那ほどの身体能力があっても、すべり台を滑っている途中で駆け上るのは至難の業だ。
私の姿が見えなくなったところでどうすることも出来ない。
綺麗なメイド服を着ているだけに、ご愁傷様。
彼女は見事に、ドロドロのローションにまみれていた。
「うぅ……最悪……」
あれだけの高粘度ローションを全身に浴びていたら抜け出すことは出来ないだろう。
「終わったわね……。後は先生たちに任せましょう」
亜夜乃がゆっくりと下ろしてくれる。
「うん」
もう緊急車両は着いているようで、赤色灯が一定の間隔でホテルの壁を照らしていた。
ピピピピピ……。
今日何度目かの着信音。
これだけ濡れてもまだ役目を果たそうとする携帯電話に感謝だ。
「もしもし」
『柚、先生たちも全員出られたよー。そっちの首尾はどう?』
「こっちも、なんとか元凶を捕まえたよ」
『本当? やるね~。早く出てきなよ、みんな待ってるからさ』
「わかった」
端末を閉じて、大きな溜め息を一つ。
「柚、もう少しだけいい?」
露天風呂から歩き出すと亜夜乃がそれを止めた。
「え……」
踵を返す。太陽はもう拳一つ分昇っていた。
「私は……あの時から、あなたに嫉妬していたの。その、あなたの強さに」
あの時――私たちがペアになった時のことだ。
「だから、あれは小さな反発心だった」
亜夜乃の瞳から小さな粒が零れ落ちる。
「亜夜乃……」
「私は柚のことを尊敬していて……同時に妬んでいた。悪いのは、全部……私で……!」
「…………」
「ごめん、ごめんね……」
俯き嗚咽を漏らす亜夜乃を私は抱擁した。
「もういいよ、亜夜乃」
「え……あっ」
私は亜夜乃のその頬に、唇を寄せた。
「よかったら……また、生徒会に戻ってきてくれる?」
私の答えは一つだった。
「……もちろん」
更衣室の方から、タオルを片手に救急隊員が走ってくるのが見える。
私たちのシルエットが長く、長く伸びていた。

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